呼吸が浅いと気づいた時に、四千年前の民が教えてくれること
- 石川尚寛(Naohiro Ishikawa)

- 1 日前
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呼吸が浅いと気づいた時に、四千年前の民が教えてくれること
瞑想中の「息苦しさ」から解放される、あるラビの視点
呼吸をしようとして、逆に息が詰まる。そんな瞬間は、どなたにもあるもののようです。静かに座り、意識を呼吸に向けようとすればするほど、かえって浅く、速くなっていく感覚。そのもどかしさは、瞑想をする者にとって幾度となく訪れるものなのでしょう。
今から約四千年前、エジプトを脱出したイスラエルの民は、過酷な砂漠の旅を続けていました。灼熱の太陽の下、先行きの見えない不安と、喉を渇かせる乾燥した空気。彼らの呼吸は自然と浅く、速くなっていたことでしょう。そんな中、彼らに与えられた天からの食物、マナ。毎朝、野面に降りるこの白い粒子は、彼らにとってまさに「命の息」そのものでした。
出エジプト記16章4節。
「主はモーセに言われた、『見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日その日の分を集めなさい』」
ここで「パン」と訳されているヘブライ語は「לֶחֶם(レヘム)」ですが、この言葉は単なる食物だけでなく、「食物」「糧」という意味を持ちます。しかし、ラビたちはこの「レヘム」という音そのものに、ある重要な息遣いを聞き取るのです。
18世紀のユダヤ教神秘主義(ハシディズム)の祖、イスラエル・ベン・エリエゼル、通称バアル・シェム・トーヴ(略称:ベシュト)は、この「マナ」のエピソードと、人間の呼吸について、深い関連性を見出しました。
彼が注目したのは、呼吸のヘブライ語「נְשִׁימָה(ネシマ)」でした。この言葉の語源は「נֶפֶשׁ(ネフェシュ/魂)」であり、さらにその根幹には「נָשַׁף(ナシャフ/息を吹きかける)」という動詞があります。バアル・シェム・トーヴは、人が息を吸うたびに、文字通り天から新しい魂(ネフェシュ)が「吹き込まれている」と説きました。
彼の解釈の独自性は、この「天からの糧」を、物理的なパンとしてではなく、まさに「呼吸そのもの」と捉えた点にあります。荒野の民が毎朝、天からのパンを集めなければ生きられなかったように、私たちは一瞬たりとも、新しい呼吸(=新しい魂)を受け取らなければ、この世に存在し続けることはできません。
呼吸が浅くなるとき、それはしばしば、不安や恐れで心が塞がっている状態だと、バアル・シェム・トーヴは示唆します。未来への不安で「次の瞬間」に心を奪われている時、あるいは過去の後悔に囚われている時、私たちは「今、この瞬間」に吹き込まれている天の恵みを受け取ることを忘れてしまっているのかもしれません。
彼は、呼吸が浅いと感じる時こそ、むしろその「浅さ」に気づくことこそが、新たな「レヘム(糧)」を受け取るチャンスだと述べます。吸う息が新しい魂を迎え入れ、吐く息が古いものを手放す。このリズムそのものが、神から直接与えられるマナの収穫の営みだというのです。
バアル・シェム・トーヴの視点に立てば、呼吸が浅いと感じた時は、それを「失敗」と捉えるのではなく、むしろ「新しい糧の収穫時」と捉え直すことも一案かもしれません。
例えば、呼吸が浅くなっていることに気づいたなら、無理に深くしようとせず、その浅い呼吸をただ観察してみる。吸う息の短さ、吐く息の速さを、まるで初めて見るもののように眺めてみるのです。すると、自然と次の呼吸は、少しだけ深くなるかもしれません。
また、一日の中で数回、「今、自分は新しい魂を受け取っている」と意識してみるのも良いでしょう。コーヒーを飲む前、パソコンの電源を入れる前、玄関を開ける前。そうした何気ない瞬間に、そっと自分の呼吸に注意を向けてみる。吸う息とともに、新たな一日の糧が自分の中に入ってくるのをイメージするのです。
ラシの解説を敷衍すれば、呼吸をコントロールしようとすることよりも、呼吸によって生かされている事実に静かに気づくことこそが、心の平安への近道なのかもしれません。
呼吸は、私たちが生かされていることを伝える、最も静かな天の声なのかもしれません。
呼吸が浅いと感じる時は、どうやら天からの新しい糧が、私たちに「ここにいなさい」と優しく語りかけている瞬間なのかもしれませんね。もしこの物語に興味を持たれましたら、『モーセ五書マンガ・出エジプト記編』で、マナのエピソードをぜひご覧いただければと存じます。




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