あなたは「岩」に話しかけましたか、それとも打ちましたか──モーセがカナンを目前に阻まれた理由 荒野の旅の終わりに起きた「メリバの水」事件──ラビたちはモーセの胸中に何を読み取ったのか
- 石川尚寛(Naohiro Ishikawa)

- 5 時間前
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あなたは「岩」に話しかけましたか、それとも打ちましたか──モーセがカナンを目前に阻まれた理由
荒野の旅の終わりに起きた「メリバの水」事件──ラビたちはモーセの胸中に何を読み取ったのか
該当する箇所は民数記20章1節から13節です。この箇所の重要な鍵は、8節で神がモーセに与えられた「וְדִבַּרְתֶּם(ヴェディバルテム/あなたがたは語りかけよ)」という動詞と、11節でモーセが実際に行った「וַיַּךְ(ヴァヤフ/彼は打った)」という動詞の対比にあります。ヘブライ語で「語りかけよ」を意味する「דבר(ダバル)」は、「言葉によって事を運ぶ」という意味合いを持ちます。この場所は後に「מְרִיבָה(メリバ/争い)」と呼ばれるようになりました。
11世紀フランスで活躍したユダヤ教の偉大な聖書注解者、ラシ(Rabbi Shlomo Yitzchaki)は、モーセが約束の地に入れなかった理由について、極めて明確な見解を示しております。ラシによれば、神はモーセに対して「岩に語りかけよ」と命じられたにもかかわらず、モーセはそれに従わず「岩を打った」のです。
ラシはここで、この行動の違いが持つ意味を深く掘り下げます。もしモーセが岩に語りかけ、それだけで水が湧き出ていたならば、それは人々の目の前で「神の聖なることを示す」最大の奇跡となったはずだとラシは述べるのです。つまり、「打つ」という物理的な力ではなく、「言葉」という霊的な力によって奇跡が起きるのを目の当たりにすれば、民は「この業はまさに神ご自身によるものだ」と心から畏れ敬っただろう、というのです。
しかし現実には、モーセは民への怒りに駆られ、自らの感情のままに杖で岩を二度打ちました。この行動は、まるで「岩から水を出すのは自分たちの力だ」と言わんばかりの振る舞いに映ったのかもしれません。ラシの視点に立てば、ここでの最大の問題は「不従順」そのもの以上に、神の御業を民に正しく示す機会を逸してしまったことにあるのではないかと考えることもできるかもしれません。
神がモーセに求められたのは、岩を打つことではなく、語りかけることでした。その一声の重みが、指導者としてのすべてを決めたのかもしれません。この物語の詳細は、拙著『マンガ モーセ五書 民数記』に描いております。ご興味をお持ちいただけましたら、Amazonにてご高覧いただければ幸いです。




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