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「つい言いすぎてしまう」その言葉が、なぜ人の心を傷つけるのか

  • 執筆者の写真: 石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
    石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
  • 12 分前
  • 読了時間: 3分

「つい言いすぎてしまう」その言葉が、なぜ人の心を傷つけるのか


ラビ・ラシがレビ記の一文から読み解く、言葉の重みと隣人への責任


レビ記第十九章第十六節。

「あなたは民の中を渡り歩いて、噂話をして歩いてはならない。あなたは隣人の血に対して立ち向かってはならない。私は主である。」


この箇所で「噂話をして歩く」と訳されるヘブライ語の動詞は「ラガル(רָגַל)」です。この言葉は「歩き回る」「探り歩く」という原義を持ち、そこから「商人が商品を運びながら売り歩く」ような行為を連想させます。また、名詞形「レシル(רָכִיל)」は「噂話をする者」を指しますが、これは「ラガル」と同じ語根から派生していると、後述するラシも注目しています。


ラシはこの節の「ラガル」という動詞に深い注意を向ける。彼はまず、この言葉が単に「歩く」ではなく、「あちこちと渡り歩く」というニュアンスを持つと指摘する。そして、そのような歩き方をする者の典型として、商人を挙げる。商人は商品を運び、あちこちの店や家を回って売り歩く。ラシは、噂話をする者もそれと同じだと述べる。つまり、ある人の言葉を商品のようにして、あちこちの人のもとへ運び、売りさばく存在であるというのである。


さらにラシは、この節の後半「あなたは隣人の血に対して立ち向かってはならない」という表現にも注目する。なぜ噂話が「血」と結びつくのか。ラシは次のように解説する。ある人が噂話を広めた結果、その噂が原因で別の人が殺されてしまったとする。その場合、噂を広めた者は直接手を下してはいないものの、結果として「血」に加担したことになる。また、たとえ殺人に至らなくても、噂によって人の尊厳や社会的な立場が傷つけられるならば、それは「血を流す」ことに等しい行為だとラシは見るのである。


ラシの視点から見えてくるのは、言葉が持つ物理的な力だ。私たちはしばしば「言葉はただの空気の振動にすぎない」と考えがちだが、ラシはそうは考えない。彼にとって言葉は、市場で取引される商品のように、受け手に影響を及ぼし、場合によっては人の命や尊厳を奪う刃にもなる。だからこそ、噂話を「して歩く」という行為は、単なるおしゃべりの域を超えて、道徳的に深刻な問題として扱われるのである。


また、ラシは「歩き回る」という動詞の反復的なニュアンスにも注意を促す。噂話は一度きりで終わらない。ある人から別の人へ、また別の人へと、まるで足で運ばれるように拡散していく。その過程で、当初の事実はねじれ、誇張され、気づかぬうちに誰かを深く傷つける形になる。ラシは、噂を「広める」ことと「受け取る」ことの両方に責任が生じると示唆しているように思われる。なぜなら、商品を売る商人がいる一方で、それを買う客がいるからだ。


ラシの解説を丁寧にたどれば、この聖句は単なる「悪口禁止」の教えではないことがわかる。それは、私たちが日々何気なく口にする言葉の一つひとつが、実際には「商品」としての価値を持ち、人の「血」にまで影響しうるという、非常に重い現実を突きつけている。ラシはここで、言葉を発する前の立ち止まる習慣の大切さを、静かに教えているのである。


ラビ・ラシは、私たちが普段「ただの話し言葉」と軽んじているものが、実は人の人生を左右するほどの重みを持つと示しています。噂話を「売り歩く」という比喩は、言葉を発する前に一度、その言葉がどのような“商品”なのかを立ち止まって考える習慣を、私たちに促しているのかもしれません。モーセ五書マンガ(全54巻)では、レビ記のこの箇所も丁寧に漫画化しております。ご興味がございましたら、ぜひお手に取ってご覧いただければ幸いです。



 
 
 

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