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「怒りが爆発しそう…」そんな時に思い出したい、神様の“意外な習慣” 出エジプ

  • 執筆者の写真: 石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
    石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
  • 2 日前
  • 読了時間: 3分

「怒りが爆発しそう…」そんな時に思い出したい、神様の“意外な習慣”


怒りがおさまらない時、ありますよね。

僕も最近、理不尽な出来事に直面し、心の中で怒りの炎が燃え上がったことがありました。

「どうしてこんなことを!?」と、そのことばかりを考えてしまい、なかなか気持ちが静まらない。

そんな時、僕はモーセ五書の中の、とある「神様の習慣」を思い出しました。


神様は、とことん「歩み寄る」方


出エジプト記の34章に、とても印象深い場面があります。

モーセが十戒を授かった後、民が金の子牛を造って偶像礼拝をするという大きな過ちを犯しました。

神様は当然、激しく怒られます。

しかし、その怒りの中でも、神様はモーセにあることをおっしゃるのです。


モーセが「どうか、あなたが私たちと一緒に進んでくださいますように」(出エジプト記34:9)と願うと、神様はこう約束されました。

「見よ、わたしは契約を結ぶ。…わたしが、かつて地のすべての民のうちでしたように、あなたのすべての民の前で、驚くべきことを行う。」(同34:10)


ここで僕が注目したのは、神様の「歩み寄り」です。

ヘブライ語で「契約を結ぶ」という言葉(「カラト・ベリート」)には、深い関係を「切り結ぶ」、しっかりと「結びつける」という意味があります。

怒りをもって遠ざかるのではなく、むしろ、その関係をより確かなものとして「結び直す」行為なのです。


怒りは、関係を“断絶”させる力


僕たちが怒りに支配されるとき、ついやってしまうのは「断絶」ではないでしょうか。

相手を遠ざけ、関係を切り、自分の正当性の中に閉じこもる。

それはある意味で自然な自己防衛です。

しかし、神様の方法はそれとは違いました。


民がこれほどひどい過ちを犯した後でも、神様は「共に進む」ことを約束されました。

この「共に進む」という姿勢こそが、怒りを超える力なのだと、僕はこの箇所から学びました。

怒りの感情そのものを否定するのではなく、その感情を持ちながらも、「では、これからどう共に歩んでいくか」という問いに目を向けさせるのです。


今日、怒りを感じたら


僕は今、怒りがおさまらない時、この神様の姿を思い出そうとしています。

「この怒りは、何を伝えようとしているんだろう?」

「この感情を抱えたまま、それでも前へ進むために、何ができるだろう?」

そう自分自身に問いかけてみる。

そうすると、怒りが単なる破壊のエネルギーではなく、何か大切なものを守ろうとする叫びなのかもしれない、あるいは、何かが間違っていることを教えてくれるセンサーなのかもしれない、と思える瞬間があります。


完全に怒りが消えるわけではありません。

でも、少なくとも、その感情に飲み込まれ、関係を断絶させる一歩を踏み出す前に、ほんの少し「間」を置くことができる。

神様が怒りの中でも「共に進む」道を選ばれたように、僕もまた、その小さな一歩を選びたいと思うのです。


これからも、モーセ五書を通して、人間の複雑な感情と、それに対する神様の驚くほどの忍耐と知恵を学んでいきたいです。

その学びの旅は、僕にとって、自分自身の心と向き合い、他者とより深く結ばれていくための、貴重な道しるべとなっています。


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