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「子どもに良い環境って何?」神が語った驚きの答え【創世記からのヒント】

  • 執筆者の写真: 石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
    石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
  • 1 日前
  • 読了時間: 3分

「子どもに良い環境って何?」神が語った驚きの答え【創世記からのヒント】


僕にも子どもがいます。

日々、どんな環境が子どもにとって良いのだろう、と考えることが少なくありません。


安全な場所、栄養のある食事、愛情、良い教育……。

確かにそれらは大切です。でも、ふと、もっと根源的な「良い環境」とは何だろう?という問いが浮かびました。

そこで、僕が取り組んでいるモーセ五書に、もう一度、耳を傾けてみることにしたんです。


創世記の18章19節に、とても印象的な神の言葉があります。

ここは、神がアブラハムについて語っている場面です。


「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族に命じて、主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて語った事を彼の上に成就するためである」


この言葉を、原文のヘブライ語の響きに少し近づけて味わってみると、もっと深い意味が見えてきます。


特に「主の道を守らせ」という部分。ヘブライ語では「דֶּרֶךְ יְהוָה」(デレフ・アドナイ)と言います。

「デレフ」とは「道」ですが、単なる物理的な道ではなく、「生き方」「歩み」「習慣」といった人生全体の方向性を指す言葉です。


つまり神は、アブラハムに「ただ命令を守れ」と言っているのではなく、「わたし(神)との関係性そのもの、わたしの生き方を、家庭の中に『道』として示しなさい」と語っているように僕には聞こえるのです。


この聖句から、僕が感じた「子どもにとって良い環境」の一つの核心はこれでした。


それは、神との生きた関係性が、日常の「空気」のように存在する環境。


「正義と公正」を行うことも、この「主の道」という生きた関係性から自然に流れ出てくる結果だと書かれています。

説教や強制ではなく、親自身が神と共に歩むその姿、選択、価値判断の基準が、家庭という「環境」そのものを作る。

子どもは、その「道」の上を、自然に歩き始めるのではないでしょうか。


僕はこれを読んで、ハッとしました。

つい、目に見える物質的な環境や、知識の詰め込みに目が行きがちだったからです。

でも、神がアブラハムに求めた第一のことは、まず彼自身が「主の道」を歩み、それを家族の生活文化にすることでした。

それが何よりも優先される「土壌」であり、それがあって初めて、他の「良いもの」が本当に生きてくると。


この言葉は、親である僕に、静かでありながら深い問いを投げかけます。

「わたしの家の『空気』は、神と共に歩む『道』の香りがしているだろうか?」

「日々の小さな選択や会話の端々に、その『道』が息づいているだろうか?」


良い環境を作ることは、完璧な家庭を作ることではないのかもしれません。

むしろ、共に迷い、考え、時には失敗しながらも、「主の道」を求め続けるそのプロセス自体が、子どもにとっての一番の養分になる。

創世記のこの一節は、僕にそう気づかせてくれました。


モーセ五書は、こうした気づきの宝庫です。

遠い昔の物語のように見えて、実は、今日の私たちの家庭のあり方に、根本から光を投げかけてくれます。

僕自身、漫画という形で学びを深めながら、日々新たな発見をしています。


もしこの気づきが、あなたの心に少しでも響いたなら、また別の箇所が新たな気づきを与えてくれるかもしれません。

気になった方は、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。

無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

共に、この古くて新しい言葉から、現代を生きるヒントを見つけていきましょう。



 
 
 

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