top of page

神が「不倫ダメ」と言った意外な理由~十戒の裏に隠された神はの願い

  • 執筆者の写真: 石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
    石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
  • 12月17日
  • 読了時間: 3分

神が「不倫ダメ」と言った意外な理由~十戒の裏に隠された神はの願い


街を歩けば「不倫」という言葉を目にしない日はありません。

ニュースでも、ドラマでも、そして時には身近な人間関係の中でも。


「なぜダメなのか」

「本当に昔の戒めが現代にも通用するのか」


僕自身、聖書を学び始めた頃は、そんな疑問が頭をよぎりました。

神はなぜ、これほどまでに「不倫」を禁じたのだろう。

単に古い規範を押し付けているだけなのだろうか。


その答えを、僕はモーセ五書、特に十戒の一節をヘブライ語で読み解く中で、少しずつ受け取るようになりました。

今日は、僕なりの気づきを分かち合いたいと思います。


契約を破る行為~ヘブライ語が語る深い意味


出エジプト記20章14節。

十戒の第七戒は、こう記されています。


「姦淫してはならない。」


ヘブライ語原文では、

「לֹא תִּנְאָף(ロー・ティナアフ)」


この「ティナアフ」という動詞は、単に性的な過ちを指すだけではありません。

聖書の文脈では、特に「結婚という神の前での契約(ベリート)を裏切る行為」を意味する強い言葉です。


モーセ五書を通して、神が何よりも大切にされているのが「契約」です。

天地創造も、アブラハムとの約束も、イスラエルの民との関係も、すべて「契約」という形で結ばれています。

結婚もまた、神が立てられた聖なる契約の一つなのです。


傷つくのは人だけじゃない~神との関係性のひび


僕がこの箇所で最も衝撃を受けたのは、レビ記18章の言葉でした。

そこには、様々な性的な禁忌が記されていますが、繰り返し出てくるフレーズがあります。


「わたしは主である。」


不倫を含む性的な罪が、単に社会的な規範違反ではなく、「わたし(神)に対する背きである」と宣言されているのです。


つまり、不倫は、

第一に、配偶者との約束を破り、その人を深く傷つける行為。

第二に、家族や共同体に不信と混乱をもたらす行為。

そして第三に、神ご自身が立てられた「契約」の秩序を乱し、神との関係にひびを入れる行為。


この三重の破壊を内包していることに、僕は気づかされました。


禁じるのは、守りたいから


創世記を見ると、神は人を「男と女」に創造され、二人が「一体となる」ようにされたと書かれています。

これは、単なる生物学的な記述を超えて、完全な信頼、安心、無条件的な愛に包まれた関係のビジョンを示しているように感じます。


神が不倫を禁じる背景には、

「どうか、あなたがそのような深い信頼関係を、自ら壊す者とならないでほしい」

「あなたも、あなたの愛する人も、嘘や隠し事に脅かされない、平安な関係を体験してほしい」


という、創造主からの切なる願いがあるのではないでしょうか。


規則は、自由を奪うためではなく、私たちが真の自由と命にあふれた関係を生きるための「土台」なのだと、僕は学び始めています。


僕の学びはまだ道半ば


一節を深く読むごとに、新しい発見があります。

モーセ五書は、単なる規則集ではなく、神が私たち人間をどれほど深く愛し、最高の人生を願っておられるかが込められた、愛の書であることに気づかされます。


もし、この話に少しでも興味を持たれた方がいらっしゃったら。

ぜひ、ご自身の目で確かめてみてください。


Amazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。

無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。

この壮大な物語を、一緒に読み解いていきませんか。


 
 
 

最新記事

すべて表示
「子どもに良い環境って何?」神が語った驚きの答え【創世記からのヒント】

「子どもに良い環境って何?」神が語った驚きの答え【創世記からのヒント】 僕にも子どもがいます。 日々、どんな環境が子どもにとって良いのだろう、と考えることが少なくありません。 安全な場所、栄養のある食事、愛情、良い教育……。 確かにそれらは大切です。でも、ふと、もっと根源的な「良い環境」とは何だろう?という問いが浮かびました。 そこで、僕が取り組んでいるモーセ五書に、もう一度、耳を傾けてみることに

 
 
 
「怒りが爆発しそう…」そんな時に思い出したい、神様の“意外な習慣” 出エジプ

「怒りが爆発しそう…」そんな時に思い出したい、神様の“意外な習慣” 怒りがおさまらない時、ありますよね。 僕も最近、理不尽な出来事に直面し、心の中で怒りの炎が燃え上がったことがありました。 「どうしてこんなことを!?」と、そのことばかりを考えてしまい、なかなか気持ちが静まらない。 そんな時、僕はモーセ五書の中の、とある「神様の習慣」を思い出しました。 神様は、とことん「歩み寄る」方 出エジプト記の

 
 
 
「大切な人ほど疑ってしまう」その心のワナ、創世記3章が教えてくれること

「大切な人ほど疑ってしまう」その心のワナ、創世記3章が教えてくれること 最近、ふと気づくことがあります。 親しい人、特にお世話になっている人に対して、なぜかふとした瞬間に「もしかして……」と疑う気持ちが湧いたり、理由もなくイライラしたりすることはありませんか。 僕自身もそんな経験があって、どうしてだろうと悩んだことがありました。 そんな時、ふと『創世記』の、あの有名な場面が思い浮かんだんです。 エ

 
 
 

コメント


bottom of page