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落ち穂に隠された神の導き
落ち穂に隠された神の導き 僕が申命記を読んでいて、胸に深く刻まれた掟があります。 申命記24章19節の言葉です。 「あなたが畑で収穫をするとき、もしその一束を畑に忘れたら、それを取りに戻ってはならない。それは在留異国人や、孤児、寡婦のものとしなければならない。あなたの神、主が、すべてあなたの手の働きを祝福されるためである。」 一見、小さな取り決めに思えるこの掟が、後に一つの運命的な出会いを生むことになるとは、当時の人々も想像できなかったでしょう。 ボアズが選んだ「掟を超える守り」 ルツ記の物語を読みながら、僕はボアズという人物の生き方に深く心を打たれます。 ボアズは単に落ち穂を残すだけでなく、僕が思うに、掟の「文字」ではなく「精神」を生きた人でした。 ルツ記2章15-16節に、彼が刈り取り人たちに言った言葉があります。 「彼女には束の中からも落ち穂を拾わせ、彼女をとがめてはならない。また、彼女のために、わざと穂の束から抜き落としておき、それを拾わせ、彼女をしかってはならない。」 ここに現れるヘブライ語の「とがめてはならない」(אַל־תַּכְל

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月18日読了時間: 4分
ヤコブが選んだ「最愛の子」の真実…その選択に隠された魂の叫びとは
ヤコブが選んだ「最愛の子」の真実…その選択に隠された魂の叫びとは はじめに:ひとつの家族、ふたつの運命 こんにちは、石川尚寛です。 聖書を読んでいると、どうしても気になってしまう「人間らしい」エピソードがあります。 今日、僕が皆さんと一緒に考えたいのは、創世記37章に描かれた、父ヤコブの「偏愛」についてです。 なぜヤコブは、ユダではなくヨセフを特別に可愛がったのか。 その理由を、ヘブライ語の原文に立ち返りながら、丁寧に見ていきたいと思います。 創世記37:3が語る「愛」の質 聖書には、こう記されています。 「イスラエルはヨセフを、どの息子よりも愛した。年をとってから生ませた子だったからである。それで、ヨセフには長そでの着物を作ってやった。」(創世記37:3) ここで僕がまず注目したのは「愛した」という言葉の原文です。 ヘブライ語では「アハヴ」אָהַבという語が使われていますが、この言葉は単なる感情的な「好き」ではありません。 意志的な選択を伴う「愛」、契約的な「愛」を意味することが多いのです。 でもヤコブのこの愛は、少し違う性質を持っているよう

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月16日読了時間: 4分


「イサクの『ほっと』する人柄に、僕は救われた。争わない生き方の原点。」
「イサクの『ほっと』する人柄に、僕は救われた。争わない生き方の原点。」 イサクって、どんな人だったんだろう? 聖書を読み始めた頃、僕はイサクのことを、どうしても「アブラハムの子」や「ヤコブの父」としてしか見られませんでした。 でも、モーセ五書をゆっくり学ぶうちに、ふと気づいたんです。 この人の生き方は、なんて「ほっと」するのだろう、と。 井戸を掘り直す、優しい選択 今日、僕が深く見つめたいのは、創世記26章18節から22節までの箇所です。 イサクは、父アブラハムがかつて掘った井戸を、再び掘り直します。 ところが、ゲラルの牧者たちが「この水は俺たちのものだ」と主張し、争いが始まる。 普通なら、ここで権利を主張し、戦うかもしれません。 でも、イサクは違いました。 彼はその井戸を「エセク」(争い)と名付け、そっと去ります。 そして、新しい井戸を掘る。また争われる。彼はそれを「シトナ」(敵意)と名付け、また去る。 三度目に掘った井戸には、もう争いは起こらなかった。彼はそれを「レホボト」(広い場所)と名付け、こう言います。 「今や、主は私たちの場所を広げて

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月15日読了時間: 3分


「イスラエル12部族の秘密:僕が創世記49章で見つけた、神の壮大な計画の一片」
「イスラエル12部族の秘密:僕が創世記49章で見つけた、神の壮大な計画の一片」 ヤコブの最後の言葉が、すべてを変えた 僕は最近、モーセ五書の創世記を読んでいて、ある一章に立ち止まりました。創世記49章です。ここには、イスラエルの父と呼ばれるヤコブが、死の床で12人の息子たち一人一人に語りかける言葉が記されています。 この言葉こそが、後の「イスラエルの12部族」の起源と言われる部分です。聖書を読んだことがない方にも、やさしくご紹介しますね。 僕が最初に思ったのは、なぜヤコブは息子たちを呼び寄せ、一人一人に違う言葉をかけたのだろう?ということでした。それは単なる父親の遺言というより、まるで未来への預言のように感じたんです。 ヘブライ語から見える深み:部族という言葉の重み 聖書の原文はヘブライ語で書かれています。創世記49章28節には、こうあります。「これらは、イスラエルの部族(שִׁבְטֵי)である。十二である。」(創世記49:28) ここで「部族」と訳されているヘブライ語は「שֵׁבֶט」(シェベト)です。この言葉、実は「杖」や「支え」という意味

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月12日読了時間: 4分


神は、なぜ「行け」と言ったのか?アブラハムに隠された人間性の核心
神は、なぜ「行け」と言ったのか?アブラハムに隠された人間性の核心 神に選ばれる人間って、どんな人だと思いますか? 特別な能力を持ったスーパーヒーロー? 何も恐れない完璧な聖人? 僕が創世記を読んでいて、強く感じたのは、そうじゃないかもしれないということです。 神が選んだ最初の人物、アブラハムの物語をひもとくと、そこには意外な「人間らしさ」が浮かび上がってきます。 今日、僕が注目したいのは、彼の人生が大きく動き出した、たった一節です。 創世記12章1節。 神がアブラハム(当時はアブラム)に告げた、あの言葉です。 「主はアブラムに言われた。『あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。』」(創世記12:1) ヘブライ語で「行きなさい」は 「レフ・レハー(לֶךְ-לְךָ)」 です。 この表現、実はとても深いんです。 直訳すると「あなた自身のために、行きなさい」という意味合いを含むと言われます。 神は命令しているだけじゃない。 「あなた自身のための旅だよ」と、個人的で深い呼びかけをしているような響きがあるんです。

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月9日読了時間: 3分
「神はアダムを『ひとりぼっち』にしたくないと言った」 〜創世記が教える、あなたが「ひとり」ではない理由〜
「神はアダムを『ひとりぼっち』にしたくないと言った」 〜創世記が教える、あなたが「ひとり」ではない理由〜 僕が創世記を読んでいて、ずっと心に残っている言葉があります。 それは、神がアダムを造られた後の場面です。 「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」 (創世記2章18節) この「ひとりでいるのは良くない」という言葉、原文のヘブライ語ではとても豊かな意味を持っています。 ヘブライ語で「良くない」は לֹא־טוֹב (lo-tov) です。 実は、創世記1章で神が創造を終えられたとき、すべてをご覧になって「非常に良かった」(トーブ・メオッド)と宣言されています。 それが、ここでは初めて「良くない」という言葉が出てくるんです。 僕はこの箇所を読むたびに、胸が熱くなります。 神は、完璧な世界を造られたはずなのに、 ただ一つ「人がひとりでいること」だけを「良くない」と宣言された。 それは、神ご自身が「孤独」を深くご存じだからではないでしょうか。 そして「助け手」と訳される言葉、ヘブライ語では עֵזֶר (ezer)

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月7日読了時間: 3分


「神の名前を軽々しく唱えてはいけない」本当の理由〜十戒に隠された、神との「近すぎる距離」の危うさ
「神の名前を軽々しく唱えてはいけない」本当の理由〜十戒に隠された、神との「近すぎる距離」の危うさ 最近、僕は申命記を読み直していて、ある一節で心が止まりました。 申命記5章11節です。 そこには、十戒の第三戒として、こんな言葉が記されています。 「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」 この「みだりに唱えてはならない」という言葉。 ずっと気になっていました。 なぜ神は、ご自身の名前を唱えることを、これほどまでに禁じたのだろう、と。 「名前」が持つ重み 僕たちは普段、人の名前を気軽に呼びますよね。 友達の名前、家族の名前。 それ自体は、親しみの表現でもあります。 でも、ここで言われている「主の名をみだりに唱える」という行為は、少し違うのです。 ヘブライ語で「みだりに」と訳されている言葉は、「ラッシャー(לַשָּׁוְא)」。 この言葉には、「虚しく」「無意味に」「軽んじて」という意味があります。 つまり、神の名前を、軽々しく、空虚な言葉として、あるいはおまじないのように唱える

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月6日読了時間: 3分
隣人を愛せよ、と神は言った。それなのに、なぜ宗教は殺し合うのか?
隣人を愛せよ、と神は言った。それなのに、なぜ宗教は殺し合うのか? SNSで話題のあの衝突を見るたび、胸が苦しくなります。 同じ創造主を信じる者同士なのに、なぜこれほどまでに傷つけ合うのだろう。 「隣人を愛しなさい」という教えは、どこへ行ってしまったのだろう。 そんな問いを抱えながら、僕は最近『申命記』のある一節と深く向き合っています。 申命記10章19節ー「寄留者を愛せ」という命令 「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であったからである」 (申命記10:19) ここで言う「寄留者」とは、ヘブライ語で「ゲール」גֵּר といいます。 土地にも血筋にも属さない、文字通り「よそ者」のこと。 この命令が語られた背景を、僕はマンガを描きながら考えました。 イスラエルの人々は、エジプトで長く「寄留者」として、つらく苦しい経験をしました。 自分たちが味わったその孤独と痛みを忘れないために、 神は「寄留者を愛せ」と命じたのです。 ここで使われる「愛する」という言葉は「アハヴ」אָהַב。 単なる感情ではなく、具体的な行動をもって示す

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月5日読了時間: 3分
たった一度の失敗で諦めていませんか?モーセが教える「もう一度」の希望
たった一度の失敗で諦めていませんか?モーセが教える「もう一度」の希望 僕はよく、過去のあの失敗を思い出しては、立ち止まることがあります。 あの時、ああしていれば…。 そんな風に、一度の過ちが心を重くすることが、誰にもあるのではないでしょうか。 今日、僕が共に学びたいのは、申命記の二つ目のパラシャット、「ワーエトハンナン」です。 この部分は、モーセが民に語りかける、深く切ない言葉から始まります。 「ワーエトハンナン」という名前は、ヘブライ語で「そして、わたしは願い求めた」という意味です。 その言葉は、申命記3章23節に記されています。 「そして、わたしは主に願い求めた。『主よ、あなたは、あなたの偉大さとあなたの力強い御手を、しもべにお示しになりました。…どうか、わたしに渡って行かせ、ヨルダンの向こう側の良い地、あの良い山、そしてレバノンを見させてください。』」 ここでモーセは、約束の地を目前にしながら、自分自身は入ることが許されないという現実に直面しています。 彼はかつて、民の前に立つべき時に、岩を打つという命令に従わず、自分自身の方法で水を出して

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
1月4日読了時間: 4分
「怒りが爆発しそう…」そんな時に思い出したい、神様の“意外な習慣” 出エジプ
「怒りが爆発しそう…」そんな時に思い出したい、神様の“意外な習慣” 怒りがおさまらない時、ありますよね。 僕も最近、理不尽な出来事に直面し、心の中で怒りの炎が燃え上がったことがありました。 「どうしてこんなことを!?」と、そのことばかりを考えてしまい、なかなか気持ちが静まらない。 そんな時、僕はモーセ五書の中の、とある「神様の習慣」を思い出しました。 神様は、とことん「歩み寄る」方 出エジプト記の34章に、とても印象深い場面があります。 モーセが十戒を授かった後、民が金の子牛を造って偶像礼拝をするという大きな過ちを犯しました。 神様は当然、激しく怒られます。 しかし、その怒りの中でも、神様はモーセにあることをおっしゃるのです。 モーセが「どうか、あなたが私たちと一緒に進んでくださいますように」(出エジプト記34:9)と願うと、神様はこう約束されました。 「見よ、わたしは契約を結ぶ。…わたしが、かつて地のすべての民のうちでしたように、あなたのすべての民の前で、驚くべきことを行う。」(同34:10) ここで僕が注目したのは、神様の「歩み寄り」です。.

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
2025年12月29日読了時間: 3分
「大切な人ほど疑ってしまう」その心のワナ、創世記3章が教えてくれること
「大切な人ほど疑ってしまう」その心のワナ、創世記3章が教えてくれること 最近、ふと気づくことがあります。 親しい人、特にお世話になっている人に対して、なぜかふとした瞬間に「もしかして……」と疑う気持ちが湧いたり、理由もなくイライラしたりすることはありませんか。 僕自身もそんな経験があって、どうしてだろうと悩んだことがありました。 そんな時、ふと『創世記』の、あの有名な場面が思い浮かんだんです。 エデンの園で、何が起こったのか 創世記3章1節から5節に、こういう出来事が描かれています。 蛇が女(エバ)に近づき、神が「園のどの木からも取って食べてはならない」と言われたことについて問いかけます。 ここで、僕がとても大切だと思うヘブライ語の単語があります。 蛇がエバに言う言葉、「神はほんとうに、『園のすべての木の実を食べてはならない』と言われたのですか」という部分の「ほんとうに」という言葉。 これはヘブライ語で 「アフ」(אַף)という言葉が使われているんです。 この「アフ」には、「本当に?」「まさか?」という、根本を揺るがすような疑いや、ちょっとした嘲

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
2025年12月26日読了時間: 4分
なぜ「たった一回」のミスで約束の地に入れなかった?モーセの岩を打った話から見る神との関係性
なぜ「たった一回」のミスで約束の地に入れなかった?モーセの岩を打った話から見る神との関係性 僕は最近、こんな自分自身の経験を思い返していました。 ついカッとなって、大切な人にきつく言ってしまった後、「ああ、またやってしまった…」と後悔する瞬間です。 その時、聖書の中のモーセの一つのエピソードが、以前よりも深く胸に刺さるようになりました。 民数記20章に記された「水が出る岩」 荒野を旅するイスラエルの民が、またしても水がないと不平を言い始めました。 その時、神はモーセにこう命じられます。 「杖を取り、兄弟アロンと共に民衆の前に進み出よ。彼らの目の前で岩に命じて水を出させなさい」(民数記20章8節、大意) ここでヘブライ語原文を見ると、神が命じた言葉に注目すべき点があります。 神は「岩に命じなさい」と言っています。 ヘブライ語で「命じる」を意味する「דַּבֵּר」(ダベール)は、言葉で語りかけることを指します。 つまり、神はモーセに「岩を打て」ではなく、「岩に言葉で語りかけよ」とお命じになったのです。 モーセの「二度打ち」 しかし、モーセはどうした

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
2025年12月24日読了時間: 3分
ゼレドの川を渡る意味~約束の地への「本当の入り口」はどこにあるのか?
ゼレドの川を渡る意味~約束の地への「本当の入り口」はどこにあるのか? 聖書を読んでいると、細かい地理の違いに「なぜ?」と感じることがありますよね。 先日、読者の方からご指摘をいただき、僕自身もあらためて学び直したことがあります。 実は、約束の地への境界には重要な二つの川があるんです。 ヨルダン川とゼレド川、その決定的な違い 確かに、一般的に「約束の地に入る」と言えば、ヨルダン川を渡る場面を思い浮かべます。 ヨシュア記のクライマックスですからね。 しかし申命記2章13節を見ると、主がこう言われています。 「さあ、立って、ゼレドの川を渡れ。わたしたちはゼレドの川を渡った。」 この「ゼレドの川」を渡ることが、38年ぶりの決定的な一歩だったのです。 ここで、僕は地図を広げてみました。 すると、ゼレド川は死海の東側、現在のヨルダン国内を流れる川で、約束の地の東の境界線の一つでした。 一方、ヨルダン川はその西側、カナンの地そのものへの入り口です。 つまり、ゼレド川を渡るということは、「約束の地の境界地域に入ること」であり、そこからさらに進んでヨルダン川を渡り

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
2025年12月22日読了時間: 3分
この一節に全てが詰まっていた。「申命記」って何の本?
この一節に全てが詰まっていた。「申命記」って何の本? 最近、僕はある一つの聖句にずっと引き込まれています。 申命記6章4節。 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」 この言葉、ユダヤ教では「シェマ」と呼ばれ、最も大切な祈りの一つです。 「シェマ」とはヘブライ語で「聞け」という意味。 ただ音として耳に入れるのではなく、心を澄まして、全身で受け止めよ、という強くて深い呼びかけです。 「主は唯一」というヘブライ語は「アドナイ エハド」。 この「エハド」は、単なる数学的な「一」ではなく、調和した統一性を表す言葉だと言われています。 神はばらばらではなく、すべてを結び合わせ、関係性そのものであるような「一」。 この一節だけで、申命記、いや聖書全体の核心に触れる気がするのです。 僕がこの言葉に込められた重みを感じたのは、それが単なる教えではなく、約束の地を目前にしたモーセが、これから様々な誘惑や困難に直面する民に、何としても伝えたい「命綱」のようなものだったからです。 エジプトでの奇跡も、荒れ野での試練も、すべてはこの「聞く」姿勢と、唯一の神

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
2025年12月21日読了時間: 3分
神が「不倫ダメ」と言った意外な理由~十戒の裏に隠された神はの願い
神が「不倫ダメ」と言った意外な理由~十戒の裏に隠された神はの願い 街を歩けば「不倫」という言葉を目にしない日はありません。 ニュースでも、ドラマでも、そして時には身近な人間関係の中でも。 「なぜダメなのか」 「本当に昔の戒めが現代にも通用するのか」 僕自身、聖書を学び始めた頃は、そんな疑問が頭をよぎりました。 神はなぜ、これほどまでに「不倫」を禁じたのだろう。 単に古い規範を押し付けているだけなのだろうか。 その答えを、僕はモーセ五書、特に十戒の一節をヘブライ語で読み解く中で、少しずつ受け取るようになりました。 今日は、僕なりの気づきを分かち合いたいと思います。 契約を破る行為~ヘブライ語が語る深い意味 出エジプト記20章14節。 十戒の第七戒は、こう記されています。 「姦淫してはならない。」 ヘブライ語原文では、 「לֹא תִּנְאָף(ロー・ティナアフ)」 この「ティナアフ」という動詞は、単に性的な過ちを指すだけではありません。 聖書の文脈では、特に「結婚という神の前での契約(ベリート)を裏切る行為」を意味する強い言葉です。...

石川尚寛(Naohiro Ishikawa)
2025年12月17日読了時間: 3分
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